1924年1月、ウラジーミル・レーニンの死後、モスクワでは遺体へ別れを告げる人びとの列が続いた。同時代の新聞はそれを「果てしない弔問者の列」と報じ、氷点下の街を労働者や市民が進んだ。遺体は労働組合会館の「円柱の間」に安置され、その後、赤の広場の仮設霊廟へ移された。

この待機は、個人的な追悼と国家が組織する政治儀礼が重なったものだった。列は一人ずつ遺体の前を通る流れをつくり、大人数の弔問を視認可能な順序へ変えた。一方、総人数や個々の待ち時間には資料による幅があるため、ここでは断定しない。

やがて霊廟そのものが恒久施設となり、レーニンを見る列は国葬の数日間を越えてソ連の公共儀礼へ変わった。最初の冬の列は、死者を悼む道であると同時に、新しい国家が記憶の入口をどう設計するかを示す場でもあった。